コースレイアウト
巨匠「井上誠一」氏について
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C・H・アリソンの来日 |
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昭和5年東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計のため大谷光明らに招聘されたチャールズ・アリソンは、それまでの日本のコース設計のあり方に大きな衝撃を与えることとなった。 |
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妥協を許さない設計姿勢 |
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戦時中はコース設計の専門家の経歴により、陸軍の土木技師としてボルネオの飛行場造りに従事、復員後は一人の設計家として那須ゴルフ倶楽部を皮切りに、大洗ゴルフ倶楽部、鷹之台カンツリー倶楽部などの日本の名コースをつぎつぎと設計。73年の生涯に手がけたコースは日本だけで39コース。 グリーンとバンカーとの取り合いに数センチの妥協も許さない厳しい設計姿勢は時に施主とのトラブルに発展、造成途中で突然設計を降りるということも珍しくなかった、また自分が手がけたコースには完成後も足をはこび突然に訪れては、支配人を呼びつけ勝手に植えられた樹木があれば移動するように、また残すべき樹木を残しているかなどと厳しくチェック指導したという。
日本のゴルフ100年 久保田 誠一 |
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佐賀カントリー倶楽部の設計 |
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井上誠一の設計である佐賀カントリー倶楽部の起工は昭和44年、創始者の山口末夫は「ゴルフ場をつくる以上、日本一のゴルフ場にする」との信念のもと井上誠一に白羽の矢を立てた。当時、関東の井上誠一・関西の上田治と称される高名な設計家。それまでの九州での実績は鹿児島県のいぶすきゴルフクラブただ一つ、引き受けてくれる可能性はあるのか?山口は信念のもと井上詣でを繰り返し、なんとか井上を佐賀県北茂安町の現地視察まで引っ張り出すことに成功した。しかし、それでも井上はなかなか首を立てに振ってくれなかった。雨の中、傘をさしながらの現地視察も終わろうとするころ、井上はつぶやいた。「今度設計するコースが最後になるかもしれない」 既に数多くの名門コースを設計し、老いた設計家としては当然の感慨かと山口は聞き流したものの、これは「引き受ける」との合図なのか?と井上を凝視した。 佐賀カントリー倶楽部10年史 より一部引用 |
井上誠一 設計のコース
3H 459yard : par4
緩やかな打ち下ろしの左ドッグレッグのミドルホール。 |
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5H 410yard : par4
やや左ドッグレッグ緩やかな打ち上げのミドルホール。 |
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6H 375yard : par4
左ドッグレッグのミドルホール。 |
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8H 379yard : par4
谷越えの左ドッグレッグのミドルホール。 |
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10H 378yard : par4
右ドッグレッグのミドルホール。 |
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12H 552yard : par5
打ち上げて、あとは緩やかに下っていくロングホール。 |
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16H 360yard : par4
ストレートなミドルホール。 |
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17H 351yard : par4
左ドッグレッグのミドルホール。ティーショットは、 |
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